軟酥(なんそ)の法

渡辺克敬(わたなべ かつゆき)

2014年12月16日 22:59

 日本に 過ぎたるものが 二つある
             駿河の富士に 原の白隠

 沼津市の原に松蔭寺というお寺があります。松蔭寺を本拠にして活動し、広く人々に親しまれた稀代のお坊さんがいました。白隠禅師、白隠さんです。

 白隠禅師は1685年に原で生まれました。子供の頃より頭脳明晰で信心にも縁があり、12才の頃には出家を考えていたほどでした。当初は両親の反対もありましたが、15才の時には出家して松蔭寺に入りました。その後あれやこれやがありました。そして26才の頃、長年の激しい修行のためか、神経症と結核にかかってしまいました。鍼灸・薬など様々な治療も効無く次第に衰弱していったのです。
そんな時に、京都にいる白幽という仙人のような隠遁者の話を聞きました。すがるような思いで白幽仙人を訪ねていきます。そこで白幽仙人から授かったのが「内観の秘法」と「軟酥の法」という心身のセルフコントロールによる健康回復・心身強化の技術です。呼吸法やイメージによる心身の変性を手段とした技法で気功や自律訓練法とも多くの共通点があるものです。その理論には陰陽五行説など東洋医学の思想が根底にあるようです。

 軟酥の法は、まず、自分の頭の上に軟酥が載っている、とイメージするところから始まります。
「軟酥」というのは、色美しく香り高い仙人の秘薬を練り合わせて、鴨卵の大きさにしたものです。もちろん想像上の産物です。頭の上の軟酥は、暫くすると体温で溶け始めます。液状になった軟酥は頭の中にもしみ込んでいきます。頭から肩へ、肩から両腕・内臓・両下肢というように全身の組織に溶け込んでゆっくりと流れていきます。この流れは、身体の中にある苦悶・しこりなどの悪しき物をも溶かして流れていきます。こうして流れてきた軟酥は足元にたまり、やがて、下半身を浸すようになります。これは、丁度世界中の秘薬を煎じた桶の中に腰まで漬かっているようなものです。こうしていると、周囲には妙香が立ち込めて、身体にはエネルギーが充満してきます。長年の苦悩は消失し内臓は調和して、内分泌は旺盛になります。
 高度のリラックスと集中がバランス良く整った状態で、鮮明なイメージを以って身体に働きかける~これが、軟酥の法の眼目です。身体と心を調整していくと、身体が心の働きに素直に感応してきます。自律訓練法などでも、イメージや言葉を使う事で心拍・呼吸・皮膚温などをコントロールしますが、こうした心身の働きを使って、機能の悪くなった心身を再調整するのが軟酥の法です。
イメージでそんなに身体が変わるものか、と思う方もいるかもしれません。1つの例として、レモンや梅干を想像した時の事を考えてください。前日に実際に食べていて記憶が鮮明であれば、その記憶をリアルに再現すれば、瞬く間に口の中に唾液が溢れてきます。反対にただ意思の力で、唾液を口の中に満たしてみよう、といくら努力しても口は緊張でカラカラになるのが関の山です。イメージの力は侮れません。それを訓練によって高めていけば、どれほどの事が出来るでしょうか。心身の操作という事に関しては、ただの精神論や根性とは違う次元の「技術としての心や意識の使い方」というものが存在しています。

 こうした優れた技法がマイナーなまま現在に至っているというのは、効果はあっても、習得・実践に努力を要するせいかもしれません。また、多くの人は見えない技術という事を理解しにくいのかもしれません。反対に途切れることなく伝わっているという事は、実践してきた人達が、そのすばらしい効果を伝えてきたからであるとも言えます。
軟酥の法は白隠禅師の「夜船閑話(やせんかんな)」という本に記されています。夜船閑話はもともと白隠禅師の覚書でした。その内容が不老長寿に関係しており長命の秘訣が書かれている、と聞きつけた松月堂という本屋さんがいました。松月堂は出版したいという手紙を白隠禅師によこしました。白隠禅師は世の人の為になる事ならと快諾しました。こうして貴重な草稿は世に出る事になって、私も目にする事が出来たという次第です。

関連記事